デジタルとアナログの中庸

日常はITにどっぷり、時々市中の山居。

境界によって生じるもの

『対』するもの 

「わたし」と「彼ら」、

「弊社」と「御社」、

「受注」と「発注」、

ビジネスでは当たり前の関係

とにかく対するものが生まれた瞬間当たり前に相対するものが発生して

当たり前に向かい合ってしまう。

もうその時点で同じモノ、同じ景色は見ていない。

だって、向い合ってるんだもの。

 

それは誰のせいか。 

非は人のせいや何かのせいにしたい。

責任は追いたくない。

誰しもそうだろうと思うけど、これってやっぱり多くの場合

境界を作ってる事によるものが多い。

 

本当に誰かのせいか。

色んなシーンで自分以外の何かのせいにしているような発言を聞く。

それって本当に自分が取れるアクション、なかったんでしょうか。

危ないって言い続けるだけで良かったんでしょうか。

わかってるなら何か手を打てたんじゃないでしょうか。

確かにアラートをあげることも大事。

でも、本気であげてましたか?

ヤジ的に言うだけで、ほら言わんこっちゃないって、なってませんかね。

何もしてないなら同罪じゃない??

それに、結果に対してあーだこーだ、どっちもどっちだよ。

 

境界をなくす。

誰しも自分の家の前にゴミを捨てない。

犬にフンさせない。

それは自分の家、というテリトリーが意識的にあるから。だよね。

 

それ、もうちょっと広げてみたらどう?

 

脳科学者のジルボルトテイラーの話。

彼女は脳溢血になった時の話がすごく面白い。

私達は普段、他のもの、という境界を作ることによって自分を意識できている。

脳溢血になったそのとき、「自分」がわからなくなることで周りの全てのものとの境界がなくなり

発生する全てのことは単なる事実でしかなく

自分がまるで世界の一部になったような、そんな感覚でなんとも幸せな気持ちになったそう。

「悟り」とはそんなものかもしれない。

 

『自分』を広げる

 

ジルボルトテイラーみたいに、自分が世界の一部になってみたら?

例えば踏切に人が侵入して電車遅延

 

自分→電車乗る→踏切に人侵入→電車遅延→遅延のせいで遅れた

電車も自分→踏切に人侵入→電車(自分)停車→遅れた

 

電車が遅れたことは単なる事実でしかない。誰のせいでもない。

世界がすべて自分なら、ダメなところも愛おしく、感謝もできる。

事実、を単なる事実と捉えられれば、後は簡単、それに対するアクションをとればいい。

おきた事実に対して良いも悪いもジャッジはない。

 

捉え方、考え方。

 

「相対する」と、見てる方向が違う。

でも、同じ方向を見てることが正しいか、良いか、と言うとそうでもない。

先日テレビに佐藤可士和さんの奥さんが出ていて、彼女は右腕として一緒に仕事をしているのだけど、

佐藤可士和さんが言うには

"彼女は同じ方向を向いて並んで立つのではなく、向い合って立ってくれるところがいい。

なぜって、僕が見えない後ろ側の景色を見てモノを言ってくれるから。"

 

すてきだ。

物事は捉え方、考え方で変わるものだ。

絶対的な信頼関係、自分達も仕事でそういう関係性を作れたら最高。

 

だけど同じ方向を向くのにも四苦八苦しているから、これはまだ私には早い(笑

まずは世界に埋まってみよう。

ただし埋まるのはあくまで自分事として捉える場合。

実際仕事をしていく上では「越境」「境界をこえていく」の方が正しいし燃えるし萌えるね。

 

 

 

 

 

奇跡の脳: 脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫)

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