デジタルとアナログの中庸

日常はITにどっぷり、時々市中の山居。

次の土俵へ。

はっけよい、9月11日、15年お世話になった会社を退職しました。

正式には有休消化があるので10月末なんだけど。
最終出社日の11日、たまたまだけど私の社員番号の日が最終出社になりました。
今は400番台に突入しているらしいので、この11もなかなか感慨深い。
 
プロジェクトも落ち着かないままバタバタと辞めて振り返る暇もなかったけど時間ができたのでこの15年を振り返ってみようと思う。
 

はじまり

2001年2月のことでした。
1社目を10ヶ月で退職して今の会社に入った。
よくよく考えると10ヶ月で辞めるような根性なしの人間、よく採用してくれたなと思う。
技術も何もないのになんで採用してくれたんだろう。。。
 
もう一社受けてたけど今の会社が先に決まったから、と、それだけの理由で入った。
そもそも地図に興味なんて全くなく、地図といえば、というこの会社の名前すら知らなかった。
これも縁。
 

入社して

1社目ではcを少しやってたくらいで、まーポインタは理解できてなかったねw
入社したころの師匠は社員じゃなくて週に2回くらいふらっと現れるバイトみたいなにーちゃん。
そのにーちゃんへ指示を出している親会社の地図マスターもいたけど、この人はザ・エンジニアって感じで初めは怖くて話しかけられなかったな。
でも後々この地図マスターとは休日家に遊びに行くくらい仲良くなった。とてもいい人。
この2人がやってた仕事がその時たまたまPerlだったことで、私もPerlで書くことになった。
スクリプト言語の手軽さと、正規表現が好きだったなぁ。もう忘れたけど。
ボロボロのラクダ本はこの地図マスターに貰った。
 
急にバイトのにーちゃんの名前思い出した。池田さん。
夏でもニット帽被ってる長髪の、どちらかといえばイケてる感じの人だった。
 
地図マスターは親会社の人だったから会社が安定してきた時に九州に戻ってしまって
退職知らせようとしたけど連絡が取れなくなってしまった。残念。
 

プログラマー時代

最初はケータイ向けのサービスのメンテと新規開発を任され
あの頃は白黒二階調とか四階調の時代で、ちょっと大きな画像出そうとするとキャッシュオーバーして
破れアイコンになるしょぼい環境に苦労した。
会社もぼちぼちサービスを拡大して、徐々に大きな会社にSEとして出たり
サービス開始すると障害で怒られたり
で、障害検知する為に監視システム作ったりもした。
 
当時はping監視とhttp監視くらいしかやってなくて、
pingもhttpも通るけど実はページが出てないとか、検索データが間違ってるとか、肝心な画像が出てないとか、データ更新失敗してるとかあったので
決めうちではあるけどページのdiffとって、前と同じならOK、差分量が多すぎたらアラートメールする。
でも3回リトライして治ってたら、一時的だったみたいっす、的なメールを流すんだけど
開発中に失敗してメーリングリストに大量のメールを送りつけるとか、やってしまってましたw
複数台のサーバーのうち1台おかしいとか、なんかおかしいとか、まぁまぁ検知出来てた気がする。
 

SE時代

人も徐々に増えていき、PGでやりつつ、上にはどんどん中途で人が入ってくるのが続きました。
ただ、その頃私から見て出来る上司が居た事はなかったなぁ。
この人が私より沢山給料もらってるんすか!
みたいな事を当時まだ営業部長だった今の社長や、同僚、一つ飛ばした上司にしょっちゅう言ってた。
生意気なコムスメやったなw
でも実際納得いってなかった。
私は入社時300万からスタートしてほんとにビンボーだったし、年俸なのにこの頃からいつも会社にいて働きまくってたしね。
そんなビンボーなのに英語勉強しようとNOVAに行き、⚪︎百万失うという忌々しい事件もあったな。
2度と英語なんか勉強するもんかと思ったな。
しかしまぁ300万から今の給料になったのは、本当によく頑張ったと思う。
 

PM時代

自社のB2Bwebサービスを続けて6年、正直似たような仕事ばっかりで飽き飽きしてた頃
新規事業をやるけどどう?と声がかかり、手をあげる。
よくわからない少数構成で、営業1、役員1、実働として私、の3名で始まったプロジェクトだった。
それが始まり。2007年。
今や大きな部になるまで拡大したけど、当時なかなか実らず途中で頓挫して世に出ない案件ばかりで辛いところもあった。
でもこの事業を進める中で外注コントロールやオフショア、プロマネの難しさや面白さを知り、ナビの仕組みの面白さを知り、オンラインサービスではない組み込みの難しさを知った。
未だそれは続いてて、会得するまでには至らなかったけど。
 
チームの拡大、案件の受注に伴って効率的ではない所が色々出てきて
過去の負債をひきずりながら新しい案件を進めるのは難しかった。
1人、構成の見直しに声をあげてもリリース優先だったり、私自身も技術的な自信がなかったし強く言えない所もあった。
 

退職を考えるキッカケ

退職なんて今まで何度も考える事はあった。
だけどここでやれないならどこにいっても同じ、それなら自分で居心地いいように変えようと思い留まってやってきた。
行きたい会社も、これやりたいと強く言える事もなかったしね。
風通しはいいし、たいがい自由な会社なので何かを変えるということについては不可能という文字は浮かばず、何かしら行動できる環境ではあった。
 
だけど3年前、案件をもって違う部署に異動した。
立ち位置的に、物凄くそれは屈辱的な出来事で、悔しくて両親の前で泣いた。
そのあとも上司と言い合いになったり怒られたりしてばっかだった。
ただそれでも仕事は好きで、でもちょうどその時期案件のあい間の中途半端な状況で人生至上最強に暇で、会社に来てもやる事がなかった。
 
そんな時、考えてしまった。
昔から、やるならプロフェッショナルになりたいと思い続けていたけど、
はて、自分に市場価値はあるのか?と。
自分のウリってなんなんだろうと。
 
答えられなかった。
 
何もない。
もうプログラムも書けないし、やってきたプロジェクトは客先都合とはいえいくつもお蔵入りになってきたし、自分のマネジメント力がどれだけのものかなんて測れないし自信もなかった。
 

出会い

暇だからといってぼやっとしたあかん!
ぬるま湯に浸かったらあかん!
コレというものを何か、次のプロジェクトのために何か、もし転職するかもに備えて何かしなければ。
そんな思いで、当時、上司曰くうちの会社はアジャイルだと言いつつ本当にそれアジャイルか?とかなり疑問を持っていた事からアジャイルの勉強を始めた。
出勤してはネットで色んなアジャイルの文献あさり、そこでIPAアジャイルに関するレポートに行きついた。
さらにそこからデブサミのセッションのyoutubeslideshare
もうすでに数年前のものだったと思う。
世の中便利になったもんだと思いつつ、若いのに凄い人たちがいるなぁと思いながら
アジャイルサムライ読んだり、youtubeでセッション見たりする日が続いた。
 
そんな中、淡々と語る大阪弁のにーちゃんの動画を見る。
おもしろいし熱意がある。
なんだこの人。
 
ここからが激動
なんかこの人devloveというコミュニティをやってるらしいぞと検索。
どうやらコンスタントに活動してる、と、タイミングよくアジャイルの勉強会。
 
迷った。ヒジョーに迷った。
勉強会なんて一度も行った事ないし知ってる人がいるわけではないし。
だけど行動しなきゃ変わらないと、思い切ってもぅめちゃくちゃドキドキしながら行った。
 
そこでの衝撃。
 
話が凄い勉強になったのはもちろん、会社を越えて知らない人同士が各々の抱えている事を話、みんな親身に解決策を言い合う。
なんだこれはと。
 
それからは何かあるたび参加しだし、知り合いもぼちぼちでき、XP祭りデブサミも参加してみたりで世界が広がった。
なにより、仕事を楽しんでいいんだという事、楽しんでる人達が大勢いる事に勇気付けられた。
技術にワクワクした。
みんな苦労して頑張っているんだなということや、アドバイスをくれるマスター先生がゴロゴロいるのにのも勇気付けられた。
 

ウォータフォールからアジャイル

この頃次のプロジェクトがはじまり、アジャイルで行くぞと決めた。
今までのやり方ではうまくいかないと思ったし、変えて試してみなきゃあいいも悪いもわからないと思った。
そこからは勉強会で得た事を試す、取り入れる日々。
手探りだったけど、そこから得たものは何物にも変えがたい。
毎日発見で面白かった。
 
このころ、アジャイルコーチを呼ぼうかとも思ったけど、自分でまずやってみたい、
失敗もその面白いところも勿体無いから独り占めしようと思ってやってた。
プロジェクト自体、会社にとっても大きな話で
これは生半可じゃ無理だと私の全精力を傾けてやっていたしそれも覚悟の上だった。
今までで全てに於いて一番のプロジェクトだったと思う。
 
この頃はもう会社のためでもないし、自分の為なんてのもないしそんなのは二の次三の次で
プロダクトのため、発売のため、お客さんの為にとにかく頑張ってた。
いつ辞めてもいいくらいの気持ちでやってはいたけど、それもプロダクトありきになってたかな。
 

そんなやり甲斐を持ってやっていたのになぜ辞めたか。

ひとつ、大きな大きなキッカケはあったのだけどプロジェクトが終わるまではと思い留まってた。
 
ズルズルとしていた時、年に一度の評価のタイミング。
これで決めようと考えた。だって史上最強頑張ってたから。
 
結果、フツーw
あ、もういいな私。
頑張ってなかった3年前となんら変わらない評価。
踏ん切りがついた。
今踏み出さなきゃ一生後悔すると思った。
それにアジャイルは私にとってこれで食ってこう、広めていこう、いきたいと思えるものだったし。
 
プロジェクトもスケジュールの変更が度々あって、こりゃまだまだ続きそうだということで待ってられないし、
一区切りの大きなマイルストンまでは持ってきたし、
引き継げる人材が育った事もあって、辞めても大丈夫そうだと判断した。
 
ある種、他チームの動かなさ加減や組織というものに嫌気がさしていたところもある。
そんなテンポやノリを壊していく時間がもう自分にはないと思った。
兵隊じゃなく、職人として熱意を持って働く道を選んだといってもいい。
 
と、色々書いてみたけど実は細かい理由とか、正直そんなものはないw
 
直感?本能?
そんなもん。
 
他の理由なんて正直後付け。
辞めるにあたって本当にどうするか、メリットデメリット、いいとこ悪いとこ出しはしたけど、それはあくまで自分を言い聞かせる、理由付けにすぎなかった。
 

振り返ると

お客さんにも、周りにも、プロジェクトにも、いろんな人や事象に育てられたと思う。
本当に好きなようにやらせて貰える環境や裁量の大きさは有難かった。
やはり人は失敗から学びやすく私も例外ではないし
無駄な事はひとつもなく、活かすも殺すも自分次第で、3年前の出来事で腐らなかったからこそ沢山の出会いがあり、3年前の出来事がなかったら今はなかった。
一見、不利に思える状況も、本当に自分の努力次第。
無駄な事はない。
どうすれば良くできるかと、信じた事と自分に出来る事をただひたすら一生懸命に。
そんな15年、この3年は特にそうだった。
私、頑張ったなーw
 

これから

ひとまず、もらえるもんは貰っとこうの有休消化をしたのち
新しいメンバーとやっていくことになります。
 
この15年では失敗からは沢山学んだけど成功からってあまり学べてなかった気がするので
次は失敗からも成功からも学べる欲張り人間になりたいと思う。
 
あとは、15年も同じ会社にいるとソコソコ自分の声も通りやすくなってきたり
意見が通りやすくなってきたりと
自分が正しい、みたいな勘違いが起きやすい状態にもなってたので
次は、高くなりかけた鼻をバッキバキにされに行こうと思っている。
 
『みのるほど こうべを垂れる稲穂かな』
 
目指すところは稲穂人間です。
実りたいけど偉そうな人間にならないこと。
全くもってできてないから、なかなか道のりは遠い。
しかし目指す事に意味があるのだー。
 
てか。。。
15年の締めくくりがこれか。。。
じじいやな(笑