デジタルとアナログの中庸

日常はITにどっぷり、時々市中の山居。

ある茶会でのできごと

2012年、震災から1年のある茶会でのできごと。

思ったこと、受け取ったことば。 

ある茶会での趣向

茶会では最初にお菓子を出し、お茶をふるまう。

その茶会では、復興支援の意味をこめて、席が終わろうとする頃、

最後に東北地方のお菓子を『おみやげ』として出した。

席でお菓子が2つでた事になるのだけど、これは異例。

だけどこれは亭主の気持ち・心に他ならない。

まず席でおみやげとして購入することで一つ支援となり、

持ち帰ったそのお菓子をおいしいと思って取り寄せてくれる人がいたら、さらに支援になる。

 

普通考えそうなのは、おみやげとしてではなく、東北のお菓子そのものを主菓子にすること。

そうしないのが私が心底尊敬する先生なんだ。

 

本来あるべきは

そのお菓子の事を聞いた客たちは、想いの深さや配慮に感動して席を後にした。

それはお菓子だけの事ではなく、席中の道具組み、とりあわせに深い意味があったことも相まってのこと。

でも先生が目指すところというのは、

その『おみやげ』がなくても同等の感動を出したいという所にあった。

 

気付かされた不届き

茶席でもてなす側というのは、チーム。

チームプレーがなってないと上手くいかないし、目指す所が同じでないと

心遣いや動きが違ってきて、一体感や空気感が出ない。

茶会というのは実は裏方はバタバタでとても忙しい。

お茶を飲んでもらう、献ずる、というところから離れ、ただただ運ぶだけになりやすい。

そして「慣れ」というのは恐ろしいもので

慣れれば慣れるほどもてなす「気持ち」を忘れていく。

その茶会では、そうなってしまっていたと言われた。

茶席というのは、亭主だけの気持ちだけでは成らないものなのだ。

いわば、亭主の気持ちを私達が潰している。

 

とらわれない

表千家裏千家武者小路千家、江戸千家などなど流派は色々ある。

本来茶席では自分たちの流派の道具や好みの道具を使う。

他流のものは使わない。

棚なんかは、形が違ったりするから点前が違ってくるので使わない理由はわかる。

だけど茶杓や花入、茶入、どの流儀でも同じ形のものも、

他流の箱書き(好み)だと使わない。

本当に客が歓んでくれるのであれば、席に必要な取り合わせなのであれば

使ってもいいじゃないか、というのが先生の考え。

そういう考え、すごく好きだ。

誰が主役なのか、誰の為の席なのか、という事。

ただ、それを誰がやっても良いかというとそうではないと思う。

あくまで『守』があってこその『破』であり『離』

 

受け取ったことば

点前の順序や形ばかりが大事なのではない。

古い道具や高いものがいいのではない。

もっと大きな目で見て考えなさい。

花も道具もそんなふうに考えて、点前もあとは自分で研究しなさい。

後は自分で追求して、自分の世界でお茶をやれるように頑張りなさい。